事実と異なる「日興上人の本尊観」を破す
―日興上人の正意は『存知事』『所破抄』に―
―事跡上も日興上人に造像の事実はない―
―第15回―
(『慧妙R1.7.1c』)
①日興上人の曼荼羅正意を示す
当欄では、法華講員と日蓮宗の薬王寺住職・大埜氏との往復文書による法論の中で、先延ばしとなっていた件を取り上げている。前回までの十数回にわたる内容は、主として、大埜氏が唱えた本門戒壇の大御本尊への疑難に対し、破折を加えてきた。
今回は、大埜氏の主張の中で見過ごすことができない、日興上人の本尊観に対する誤った認識を糾そうと思う。
すなわち、古来、仏像正意を主張する他門の中に、日興上人は仏像論者だという者がおり、ご多分に漏れず大埜氏もその一人なのである。大埜氏の邪説は次のとおり。
「後世、日興上人は、脇士ありの仏像肯定から曼荼羅正意にかわります。しかし、それでも、釈尊否定の書はありません。あるならば提示されてください。むしろ賛美です。言い換えるならば、『脇士(きょうじ)なしの釈迦像』を否定しますが、『脇士ありの釈尊像』を否定している書はありません。むしろ肯定です。」
そこで当稿では、まずはじめに、日興上人の本尊観についての真義を二、三の文証を挙げて示す。その上で次稿から、真実とかけ離れた、大埜氏の日興上人の本尊観を断じていこうと思う。
まず第1に『富士一跡門徒存知事』には
「五人一同に云はく、本尊に於ては釈迦如来を崇(あが)め奉るべし(中略)或は一体を安置し、或は普賢(ふげん)文殊(もんじゅ)を脇士とす(中略)日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯(ただ)御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり」(御書P1871)
との仰せがある。
この文に明らかなように、日興上人はいかなる絵像仏像をも否定され、大漫荼羅をもって御書並びに大聖人の一期化導の御聖意、と断定されている。まさしく釈尊否定の書であると共に、脇士の有無に関わらず仏・菩薩像の造立を否定された、何よりの証文であろう。
この一文をもってしても、前の大埜氏の見解が明らかな誤りであることが理解されよう。
第2に、『五人所破抄』には
「倩(つらつら)聖人出世の本懐を尋ぬれば、源(もと)権実已過の化導を改め、上行所伝の乗戒を弘めんが為なり。図する所の本尊は亦(また)正像二千の間(あいだ)一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり」(御書P1879)
とある。
大聖人弘通の本尊は、爾前・迹門・本門等の仏像ではなく、妙法七字の大漫荼羅である、と述べられた文である。また本書の性格から言えば、五老系の像造への執着を破した文でもある。
第3に、日興上人が大聖人の正義を正しく信解した者と判断され、重須談所の学頭に任命した、三位日順師の『擢邪立正抄』には次の説示がある。
「日興上人独り彼の山をト(ぼく)して居し、爾前迹門の謗法を対治して法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫荼羅を安置し」(宗全2巻P355)
文中の「彼の山」とは戒壇建立の地である富士山を指す。すなわち、日興上人は富士山の本門の戒壇に釈迦像ではなく、大漫荼羅を安置すべしとされた文である。
上記の文証に明らかなとおり、大聖人の御聖意である漫荼羅正意を拝し得ない大埜氏にとってみれば、日興上人の真意を拝することも難しいだろうが、日興上人は仏・菩薩の造像を否定され、漫荼羅正意を主張されたのである。これが日興上人の本尊観である。
さらに言えば、この本尊観は、史実によっても明確に拝することができる。すなわち、日興上人の御一期中に、仏像造立の記録はもちろんのこと、仏像授与の事実も皆無なのである。
例えば『日代上人に遣す状』には
「仏像造立の事。故上人の御時、誡め候の由、師匠にて候人、仰せられ候畢(そうらいおわんぬ)。今は造立せられし候(中略)爰(ここ)に富士御門流ども、出家在家の人来て難じて云く、凡(およ)そ聖人の御代も、自ら道場に仏像造立の義なし、又故上人上野上人の御時も造立なきをや」(宗全2巻P408)
とある。
この書は、日尊の弟子である日尹が、日興上人の弟子である西山(現、西山本門寺)の日代に、師の日尊が釈迦立像と十大弟子の像を造立したことについて、それが正しいか否かを質問した書である。当文には、大聖人はもとより、「故上人」=日興上人も「上野上人」=日目上人にも仏像造立がなかったこと、また日興上人は仏像造立を誡められていたこと等が示されている。
また日代の『宰相阿闍梨御返事』には
「仏は(※釈迦立像)墓所の傍に立て置くべし云云(中略)此事一体の仏、大聖の御本意ならば、墓所の傍に棄て置かれんや、また造立に過(とが)なくんば、何ぞ大聖の時、此仏に四菩薩十大弟子を造り副(そ)へられざらんや、御円寂之時、件(くだん)の漫荼羅を尋ね出され、懸け奉る事顕然なり、勿論なり(中略)二代の聖蹟、数通の遺誡、豈(あに)虚しからんや」(宗全2巻P234)
とある。
文中の「二代の聖蹟」とは日興上人、日目上人の行徳聖跡を指すのであり、大聖人が一体仏を捨て置かれた御本意と同じく、二代の聖蹟にも仏像・四菩薩等の造像もなかった、と日代は述べている。
これらの文から日興上人に仏像造立がなかったことは明らかであろう。
以上、二、三の文献をもとに、日興上人の本尊観を概観して、脇士の有無に関係なく、仏・菩薩の仏像造立を否定された、造像否定の見解とその史実を確認した。
言ってみれば、大埜氏を含め、日興上人を仏像論者と誤認する者の主張は、日興上人のお言葉の前後の意味を理解せず、また当時の事情を無視した、一知半解(いっちはんげ)の浅見にすぎないのである。
正義を真摯(しんし)に知ろうともせず、自分勝手な解釈を恥じることなく言いのける、その姿勢には辟易(へきえき)するが、次稿では、こうした日興上人に悖(もと)る邪説を断じていこうと思う。
[画像]:身延山久遠寺本堂に祀られる仏菩薩像。しかし日興上人は、『富士一跡門徒存知事』『五人所破抄』で、こうした奉安形式を完全否定!(写真はウィキペディアより)