(『慧妙』H30.3.1)
【下種三宝を疑難してきた他門流】
本門戒壇の大御本尊は、末法の御本仏日蓮大聖人が弘安2年10月12日に図顕あそばされた、一切衆生皆成仏道の正境である。
その大御本尊は、日蓮大聖人より唯授一人の血脈相承を受けられた日興上人以来、嫡々付法の御歴代上人によって、今日まで富士大石寺に厳護されてきた。
この、本門戒壇の大御本尊と、宗祖本仏義、そして唯授一人皿脈相承こそは、本宗が日蓮大聖人の唯一の正系門流たる証(あかし)である。
だが、これを絶対に認めることのできない、日蓮宗をはじめとする他門流では、古来、様々な疑難をもって否定しようと試みてきた。
すなわち、北山本門寺日浄の記述(大聖人滅後2百年ごろ)にはじまり、玉野日志による『大石寺明細誌の批判』(明治11年)や、高田聖泉の『興尊雪冤録』(昭和30年)、安永弁哲の『板本尊偽作論』(昭和31年)、宮崎英修の『大石寺・板曼荼羅について』(昭和51年)、金原明彦の『日蓮と本尊伝承』(平成19年)等々である。
これらの疑難に対しては、玉野日志の邪義を52世日霑上人が徹底的に破折あそばされたように、宗門ではその時々に、邪難を呈する誹謗(ひぼう)の徒を破折し尽くし、人々が邪義邪見に惑(まど)わされて堕獄の業因を積むことがないよう、対応してきた(『「興尊雪冤録」の妄説を破す』『悪書板本尊偽作論を粉砕す』『宮崎英修氏の妄説誹謗を破す』『日蓮と本尊伝承の誤りを破す』)。
しかし、自分の無知を露呈(ろてい)したいのか、これらの応酬を無視し、従来の邪説を寄せ集めて本宗に疑難を投げかけてくる輩(やから)がいる。
最も新しいところでは、日蓮宗・薬王寺の住職を務める大埜慈誠氏がその1人である。
【日蓮宗薬王寺からの疑難のキッカケ】
ここで、大埜氏による疑難が出された経緯について触れよう。
理境坊所属の法華講である妙観講では、昨年(平成29年)の夏季合宿において、日蓮大聖人御生誕の地である千葉県下の日蓮宗寺院の実態を調査・研究することになり、有志が、訪問及び電話により、県下の全日蓮宗寺院に調査を実施した。
その結果、日蓮宗における本尊雑乱の現況(釈尊像、日蓮大聖人像、曼荼羅[宗祖御真筆のコピー、住職が書いたもの等]、鬼子母神、稲荷等)が確認されただけにとどまらず、この調査を通して、日蓮宗の僧侶が本尊に迷い、自宗に力がないことを語るありさまを目のあたりにすることとなった。
この時の調査過程で、日蓮宗清澄寺を訪問した妙観講の講員が、同寺の僧侶と知り合いになり、以来、折伏のやり取りを重ねることとなったのだが、途中で清澄寺の僧侶は逃避してしまい、「今後は鎌倉の薬王寺が対応します」と、突然、登場したのが薬王寺住職の大埜慈誠氏だったのである。
大埜氏はメールを使い、「私は過去に、法華講員、妙観講員、顕正会員など富士系の信徒千2百名と会ってきましたが、最初の段階で、この2つの問いに、しっかりとお答えを頂いたことがありません」と、戒壇の大御本尊に対する2つの愚問を送って、妙観講講員に法論を挑んできた。
こうして、双方の間でメールを交換する形で法論が始まったのである。
当法論の詳細は『法華講員VS日蓮宗住職〈序章〉』(暁鐘編集室発行)を読んでいただけたら分かるが、互いに5通ずつのメールを往復させた時点で、一旦、膠着(こうちゃく)状態となってしまった。
その原因はというと、大埜氏が最初に投げかけた2つの疑難について、法華講側が、文献の取り違えや日本語の読み違え、故意に偽書を利用したことなどを指摘したところ、大埜氏は絶対に自らの主張の誤りを認めないばかりか、自らが反論不能に陥(おちい)ったため、関連質問と称して次々に新しい疑難を持ち出し、無制限に論点を拡げはじめたのである。これでは論議が続くはずもなく、法論は膠着状態となった。
そこで、一旦、法論を中断し、双方のメールのやり取りの全文を公開して、一般の方々からの判定をいただくことにしたのである。
その結果、56通というじつに多くの感想が寄せられ、ぞのうち55人が法華講側に軍配を上げて、大埜氏の態度を潔しとしなかったのである。
さらに後日、この時に大埜氏に軍配を上げた1通(自称・関東の某寺所属の法華講員の所感)というのが、大埜氏自らによる偽造メールであることが発覚、これをもって大埜氏には誠実な法論など行なう資格がないことが判明し、結果、当法論は終了したのである。
【他門流の邪難を一掃する連載を開始】
ただし、この法論の途中で大埜氏が次々と持ち出してきた本宗への疑難については、謗法者の迷妄を醒(さ)ますためにも、どこかで破折はしておいた方がよい。
『法華講VS日蓮宗住職〈序章〉』の「おわりに」の末文にも「(大埜氏からの多くの疑難については)その回答をなんらかの形で読者の皆様にお伝えする」としてあったが、それを今回、当『慧妙』紙上にて掲載することになったものである。
そもそも、大埜氏が次々に羅列した本宗への疑難は、謗法者による過去の怨嫉雑言の蒸し返しであり、また極めて幼稚なものであるため、あえて破折する必要はない、という御意見もあろう。しかし、小欄を通して、過去の疑難の誤りを広く明らかにし、本宗がいかに正しいかを知る機会となるならば、御信徒の信行増進の糧(かて)となろう。さらに言えば、いずれ創価学会が持ち出してくる疑難を破折する役にも立とう。
よって小欄は「他門流からの疑難を破す」と題し、他門流からの本宗に対する疑難を取り上げる。
その手始めに、まずは大埜氏の挙げてきた邪難の中で、いまだ破折していないものを、次回から取り上げていく次第である。
―『御伝土代』に噛みつく大埜(おおの)氏の無慚―
―日道上人の御本意は釈迦一体仏の破折―
(『慧妙』H30.4.1)
小欄連載のきっかけとなった、『法華講員VS日蓮宗住職〈序章〉』を読まれた方は御存知だろうが、大埜氏(日蓮宗・薬王寺住職)の邪義の1つに、『御伝土代』(4世日道上人著)の
「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背(そむ)く意は罪を無間に開く」
との文と、本門戒壇の大御本尊に認(したた)められた仏滅讃文「二千二百二十余年」とが異なるので、日道上人は「唯授一人血脈相承の人であり、戒壇本尊を相承されていながら、別の曼荼羅への信仰を求めている」という主張がある。
この邪難は、何も目新しいものではない。以前から多数の謗法者によって主張されてきた内容で、すでに破折済みなのだが、それも知らず、今回の法論でも持ち出してこられたのであった。
簡略に破折の要点を述べれば、『御伝土代』の当文の標題に
「一、脇士なき一体仏を崇(あが)めるは謗法の事」
とあることからも、当文は、「仏滅後二千二百三十余年…」と示された正像未弘の曼荼羅御本尊に背いて、釈迦一体仏を崇めるならば無間地獄に堕ちる、との文意であること、したがつて、仏滅讃文に「二十余年」と認められた御本尊を捨てて「三十余年」と認められた御本尊を取らなくてはいけない、との意味は全くないのである。
大埜氏は、この破折に対し、文意を無視した同様の疑難を3つの文献から引いて主張した。しかし、どれもこれも反論になっておらず、また論点の拡大となるため、その疑難に対する破折は先延ばしとなっていた。
そこで小欄では、この疑難を取り上げ、破折を加えていくものである。
【"末法に初めて出現"が仏滅讃文の主意】
―御本尊書写は大御本尊の臨写ではない―
その前に、はじめに2、3、述べておきたいことがある。
それはまず、大埜氏が住職を務める薬王寺では、呆気(あっけ)にとられるほどの本尊雑乱の有り様が見受けられる、という点である。そのような間違った本尊観を持つ者が、大聖人の正しい本尊観を論ずる、などということは、そもそも無理なのである。
「諸宗は本尊にまどえり」(御書P554)
との御教誡を挙げるまでもないだろう。
次に、大聖人の御本尊に認められた仏滅讃文の主意は、最後の「大曼荼羅也」にある、という点である。
そもそも仏滅讃文とは、大聖人が末法万年救済のために図顕された正境が、仏滅後二千余年に未曽有の"大曼荼羅"であることを明示された文である。よって、仏滅讃文における仏滅後の年数の相違(二千二百二十余年か、三十余年かの相違)は讃文の主眼ではなく、また本宗の本尊義においても、その相違で一方の御本尊を取捨選択する、などという教義はないのである。
さらに、御本尊書写の権能を有する御法主上人以外の部外者が論ずる事は畏(おそ)れ多いことであるが、日興上人をはじめ御歴代上人の御本尊「書写」とは、ただ単に戒壇の大御本尊のお文字を書き写す(臨写する)ことでは、けっしてない。
本宗における御本尊の書写とは、血脈相伝を受けられた時の御法主上人が、大御本尊と一体不二の大聖人の御内証を拝して、御本尊を御認めになること、と拝するのである。
よって、御本尊の相貌に相違が拝されることに対し、それを道理に合わない、矛盾(むじゅん)である、などと謗(そし)ることは見当違いの疑難にすぎない。
こうした、御本尊の仏滅讃文の主意や御本尊書写の深義を理解できていないからこそ、大埜氏は「上記の書(『本門心底抄』『日尊実録』『五人所破抄見聞』のこと。次回で取り上げる)にも、当然、御伝土代とも戒壇本尊とは無関係であると明確だと言っているのですよ」「三十余年と戒壇本尊の矛盾に関する関連書物です」と浅はかな発言を繰り返すのである。
本宗の教義信条から言えば、これら3つの文献に説示された御文は、どれも戒壇の大御本尊と「矛盾」することなど、何1つない。大埜氏の主張は、仏滅讃文の年数にとらわれた、ただの言い掛かりに過ぎないのである。
次回は、その言い掛かりについて、具体的に反駁(はんばく)する。
[画像]:薬王寺のホームページには所蔵の仏像の数々が―その総数は12体!
―論拠の3書は仏滅年次を論じたものに非ず―
―疑難のために文書を漁り浅識の馬脚現わす―
―第3回―
(『慧妙』H30.5.1)
【「戒壇本尊の仏滅年次は矛盾」だって!?】
―「指摘した文献あり」と嘯(うそぶ)く大埜―
前稿では、大埜氏の仏滅讃文に対する疑難が、讃文の主意と御本尊書写の深義を理解できない故の、言い掛かりに過ぎないことを指摘した。
今回は具体的に、大埜氏の言う「上記の書にも、当然、御伝土代とも戒壇本尊とは無関係であると明確」「三十余年と戒壇本尊の矛盾(むじゅん)に関する関連書物」等の低次元な難癖(なんくせ)を取り上げよう。
ここで大埜氏が言うところの関連書物とは、①三位日順師の『本門心底抄』中の「仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内未曽有の大曼荼羅なり、朝には低頭合掌し・夕には端座思惟し・謹んで末法弘通の大御本尊の功徳を勘(かんが)ふるに」との文、②日尊師の『日尊実録』中の「これに依(よ)って本尊の銘に云く、仏滅後二千二百三十余年の間、一閻浮提の内、未曽有大曼荼羅也云云」との文、③妙蓮寺日眼師の『五人所破抄見聞』中の「仏滅度後二千二百三十余年の間、一閻浮提の内、未曽有の大曼荼羅と遊ばすなり。諸仏菩薩諸世天等は衆生利益を肝要とせり。三十余年と在る文永十一年の比よりの御筆の曼荼羅、猶(なお)もって肝心なり」との文をいう。
はじめに言っておけば、大埜氏はどの文意についても、まるで理解できていないだけであり、ただただ本門戒壇の大御本尊との矛盾をあげつらおうと、仏滅讃文の年数にとらわれて、必死に諸文献を挙げているにすぎない。上記の3書はいずれも「三十余年と戒壇本尊の矛盾に関する関連書物」などでは、けっしてないのである。
まず、①『本門心底抄』は、日順師が、御書や経釈等を引いて三大秘法について説示した書である。当文はそのうちの、妙法蓮華経の妙義についての説示中の文であり、諸釈に続いて『一昨日御書』の
「爰(ここ)に日蓮比丘(びく)と成りしより、旁(かたがた)法門を開き、已に諸仏の本意を覚り、早く出離(しゅつり)の大要を得たり。其の要は妙法蓮華経是(これ)なり」(御書P476)
の文を引かれた後に「又云はく」として述べられた文である。
つまり、当文①は、日順師が『一昨日御書』を引用して、大聖人証得の諸仏の本意・出離の大要が妙法五字であることを示し、また仏滅讃文を引いて、大聖人御図顕の妙法曼荼羅御本尊を示した文であって、それ以上の意はない。大御本尊の讃文や、または出世の本懐を示すために引いた文ではないのであるから、当文中に挙げられた讃文が「三十余年」だからといって、戒壇の大御本尊を否定する文証にはならない。「戒壇本尊とは合致しない。これが矛盾でなくてなんなのですか?」などという疑難は全く当たらないのである。
次に②『日尊実録』は、表題に「一 本尊書写の事」とあるように、大聖人滅後の本弟子6人(六老僧)、及び各末流における本尊書写について述べられた内容である。
その全体から拝するならば、当文は、五老僧方の各門流では面々が本尊を書写しているのに対し、我が富士門跡(日興門流)では日興上人の御遺誡として「付弟一人之を書写し奉る」ことを守っている、と主張するのが趣旨であって、その際に「本尊の銘」として仏滅讃文を引かれたまでである。
当文中に戒壇の大御本尊に触れる部分は皆無であり、また全体からいっても、そのような内容ではない。よって、氏のいう「矛盾」など一切、生じないのである。
次に③『五人所破抄見聞』の当文は、前文に「末法能弘、本化所図の曼荼羅をもって本尊とす」とあるように、末法弘通の本尊について、仏滅讃文を挙げて曼荼羅御本尊を具体的に表現した文である。
また「三十余年(中略)肝心也」とは、仏滅年数の上だけの二十余年と三十余年の相違を挙げて三十余年を肝心と述べているのではない。
そもそも戒壇の大御本尊が「二十余年」と認(したた)められているからといって、「合致」とか「矛盾」とかの言が出るのは、大聖人の真意が分かっていない愚劣の主張なのである。讃文の主意もわからない門外漢が想像しても絶対に分からないだろうが、この件に関しては、次回、説明したいと思う。
以上、①②③の文はいずれも、「三十余年」でなくはいけないことを述べた文でも、戒壇の大御本尊について述べた文でもない。大埜氏は戒壇の大御本尊との矛盾をあげつらおうと躍起になった結果、文意をはき違え、浅識の馬脚を現わしたのである。
大埜氏が、たとえ血脈相伝の上からの正しい本尊義が分からなくても、自己に邪心があった事を素直に認め、心を静かに上記の3書を見直すならば、「三十余年と戒壇本尊の矛盾に関する関連書物」でないことぐらい、容易に理解できるであろう。
―「三十余年」の讃文に籠められた寿量開顕の意―
―『所破抄見聞』はその御境界を「肝心」と―
―第4回―
(『慧妙』H30.6.1)
小欄ではこれまで、御本尊に認(したた)められている讃文中の仏滅年数の御聖意が分からずに、あれこれと難癖を付ける大埜氏の主張を破折している。前回は、大埜氏が挙げた「戒壇本尊の矛盾(むじゅん)に関する関連書物」が、まったくの無関係な文献であり、戒壇の大御本尊と毫(ごう)も矛盾が生じるものではない、ということを確認した。
今回は、詳解を先送りにした『五人所破抄見聞』の「三十余年(中略)肝心なり」の文について述べていきたいと思うが、その前段階として、まずは讃文中の「二十余年」と「三十余年」の意義を述べたいと思う。
もちろん、御本尊の相貌(そうみょう)に関すること故、すべてその権能を有する御法主上人の御指南を拝信して述べるが、逐一、その典拠を示さないことを予(あらかじ)めお断りする。
まず、大聖人が御本尊に認められた讃文中の仏滅年数には「二千二百二十余年」と「三十余年」の2通りが拝せられる。この両表示のそれぞれに深義があることは、御歴代上人の御指南(特に日寛上人『観心本尊抄文段』、日顕上人『三大秘法義』)によって拝せられる。すでに当紙でも掲載しているので、ここでは概略のみを記したい。
大聖人が御一期(いちご)に図顕された御本尊中、弘安元年より前の仏滅年数は「二十余年」であり、それ以後は「二十余年」「三十余年」の両記、弘安4年以後は「三十余年」と認められている。
このうち「二十余年」とは、仏滅年からの起算にして、当時の通説であった『周書異記』の説による。また「三十余年」とは、釈尊が寿量品を説かれた年からの起算にして、弘安元年以降にかかる寿量開顕の意義をもっての仏滅年数である。
また日顕上人はより詳細に、弘安元年以降における、仏滅年より起算の20余年の御本尊は、三身中の報身の常住不滅に即する応身の滅度(不滅にして滅)、寿量品より起算の30余年の御本尊は、三身中の応身の滅に即する報身の常住不滅(滅に即する不滅)を示されるための表示と拝されると、両記の深義を教示されている。
つまり、大聖人御一期における妙法曼荼羅化導の上において、実際は2千227年にも拘わらず30余年という仏滅年数を示された弘安元年という年は、寿量品における仏身の境地を開顕された重要な意義を持つため、日寛上人は「弘安元年已後、究竟の極説なり」と仰せられたのである。
また弘安元年以降の御本尊は、その深い御境地の上から顕わされているため、20余年・30余年の仏滅年数の相違に拘わらず、共に究竟の極説であり、また各意義がそれぞれに具(そな)わっているため、すべてが究竟の御境地からの御本尊である、と拝されるのである。
したがって、20余年と示されているから究竟でないとか、30余年と示されているから究竟であると考えるのは、大きな誤りなのである。
さて、これらの深義を拝した上で、20余年(中略)肝心なり」との文について述べていきたい(当文に「三十余年と在る文永十一年の比より」とあるのは弘安元年の誤り。ただし文永12年にのみ数幅の御本尊あり)。
まず前稿にも述べたが、当文は両記ある仏滅年数のうち、30余年と表示された御本尊を指して「肝心」と言っているわけではない。大聖人の御境界を指して「三十余年(中略)肝心」と示しているのである。
つまり、弘安元年以降、3年までは、実際は27~9年であるにもかかわらず、寿量品開顕の意を拝されて30余年と表示された、その大聖人の御境地を肝心と述べているのである。弘安元年以降の、20余年と記された御本尊を肝心ではない、と言っているのではないのである。
当文は、単に上記の意を略しているだけであって、30余年の仏滅年数は、本懐究竟される弘安元年以降に顕われた、深い御境界の表示であるから、肝心と述べられたまでである。
またこのことは、先の日寛上人の御指南が、御化導の時期(弘安元年)に約して述べられたものであり、かつ、御一期中の一々の御本尊を、究竟・未究竟と分別されたのではないことからも明らかである。
したがって、本門戒壇の大御本尊に「二十余年」と認められ、当文に「三十余年(中略)肝心」とあるといっても、矛盾はなく、小首を傾(かし)げることはなにもないのである。
以上、諸文献に「三十余年」と見えることから、本門戒壇の大御本尊を否定しようとする、大埜氏の主張を破折してきた。翻(ひるがえ)ってみれば、この発端は、氏の『御伝土代』における邪心に満ちた誤釈による。そして、氏はその後の法華講員の懇切丁寧な反論に耳を傾けることなく、次々に書籍を列挙し、戒壇の大御本尊を誹謗したのであった。しかし、そのどの書籍も、結局のところは無関係であって、氏の疑難は当たらなかったわけである。
仏滅年数の表示の意義が分からない氏は、想像するに、必死に戒壇の大御本尊との矛盾を挙げつらおうと書籍に当たった結果、凡眼に映る相違だけで心が躍ってしまったのだろう。
「明者はその理を貴び、闇者はその文を守る」とは日寛上人のお言葉である。大曼荼羅正意も分からない氏が、上記の御聖意を理解できるか、できないか、はさておき、まずは表面上の文しか理解しようとしない、その根性を誡めるべきであろう。